【しあわせって何だろう?その2】
鹿沼市の活法整体・鍼灸院、ますぶち治療院です。
『鍼灸師ってどんな人?』
そんなイメージしづらい生業をしているひとのブログです。
今回も「しあわせ」をテーマに語っていきます。
しあわせは主観
前回、「しあわせ」は主観だから個人差があり、共有しづらい、というお話をしました。
「しあわせとは何なのか?」を語るためには「何ではないか」を定義する必要があるからです。
しあわせは客観的なものではなく、自分から見た個人的な現実なので、他人と共有しづらい性質のものだということでした。
共有しづらさは共感しづらいということです。
共感できないから、何かに熱中してしあわせな時間を過ごしている人を見ても、何が楽しいのだろう?と首を傾げるわけです。
人とわかりあえない不幸の根源がここにあります。
自分のしあわせは自分で考える
他の人はしあわせについてどのように考えているのか。
具体的なしあわせの定義を得られるのではないかと期待して、しあわせに関する本を読んだことがあります。
ショーペンハウアーの「幸福について‐人生論‐」は原始仏教の影響が強くて日本人向けという感想です。
ラッセルの「幸福論」はシステマチックに幸福に至ろうとする現代人向けという感想です。
読んでみてわかったのですが、他人の幸福論は他人のもの。自分にはしっくりきませんでした。
やはり「しあわせ」は共有しづらいのです。
誰かの考えた「しあわせ」は誰かのもの。自分の「しあわせ」は自分で考えるしかありません。
皆さんも自分のしあわせは何なのか、考えてみませんか?
しあわせではないもの
「自分のしあわせ」を定義するものは「しあわせではないもの」を考えると見えてきます。
私の考える不幸の要因は不満・欠乏・喪失の3つです。
不満=思い通りにならない!
欠乏=足りない!
喪失=なくなった!
この3つに近づくとしあわせから遠ざかるわけです。
そこでこの3つから距離をとる方法を考えます。
不満に対しては納得を、
欠乏に対しては充分を、
喪失に対しては持たないという方法が考えられます。
納得は自分の意思で行動を決定することで得られます。
それが選択肢が限られる局面でも、良い結果が得られなくとも、「自分で選んだ」事実が大切なのです。
意思決定権を最大限持つことが納得につながります。
そして意思決定権を持つことを「自由」と呼びます。
充分と気づくには、一度冷静になって身のまわりを確認することです。
すでに生活必需品はそろっています。
足りないと思うのは誰かにそう思わされているだけではありませんか?
テレビを見なくなると冷静になれます。
必要以上に持たないという生き方は心が軽くなります。
なぜなら持っていないものは失くしようがないからです。
そして持つならば、知識や技術や経験といった、失くならないものを持つべきです。
しあわせを外に求めない
基本的にしあわせは自分の内側に求めるべきです。
しあわせを自分の外側に求めると、それが失われた途端にしあわせでなくなってしまいます。
人間は致死率100%。あの世に何も持って行けません。
老いは徐々にあらゆる事物や関係者を失わせていきます。
そんな現実をしあわせに生きるには、しあわせの泉を自分の内側に持たねばなりません。しあわせは「個」のものだからです。
ブッダは「犀の角のようにただ独り歩め」と言いました。
私は「周りとの関係性も大切だけど、依って立つものは自分の内側に求めよ」と解釈しています。
鍼灸と関係ないお話は次回で最終回です。
増渕 一成 (鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師)
栃木県鹿沼市出身
趣味は読書、熱帯魚、落語鑑賞。
活法研究会の提唱する碓井流活法(整体)と整動鍼法を施術の2柱としている。
活法研究会会員。
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